Language Observatory

Search results

2005-01-21

文字符号の歴史|番外編|ベトナムの文字文化

漢字と科挙

漢の時代から唐の時代まで、ベトナムの地は中国歴代王朝の支配下にあった。唐王朝滅亡後の西暦939年に呉権(ゴーグェン)が呉王朝を創建し、以降、フランスの植民地となるまでの900年余、黎朝・阮朝などが興亡をくり返したが、文化的には一貫して中国の影響を強く受けてきた。科挙制度もそのひとつであり、かつてベトナムの秀才ははるばると中国の都へ出かけて最終試験を受けていた。ハノイには文廟という史跡があるが、ここはかつて科挙をめざした若者たちの勉学の場であった。今でも歴代科挙試験合格者の名を記した石碑が多数残されている。

こういう歴史であるから、ベトナム語の語彙には中国語由来のものが多い。邪道かもしれないが、日本人がベトナム語の単語を覚えるのに、その漢字表現を思い浮かべると楽である。ホーチミンは胡志明だし、ハノイは河内、ベトナムは越南である。筆者は越漢辞典を1冊もっているが、ベトナム語の単語は越和辞典よりも、こちらで引いたほうが後で応用が利く。越漢辞典で調べた漢字が記憶に残ると、類似の単語を聞いたときに、音から漢字を連想することができるようになるからだ。日本の漢字の音は、それが導入された時代に応じて、漢音・呉音などがあるが、もっとも多いのは南方の呉音である。ベトナム語に導入された漢字音は、日本と同様、中国南方の音だから、日本人には好都合である。大学はダイホックというし、国語はクォックグーという。北京語では、前者はターシェ、後者はクオユィとなるが、ベトナムの音は日本のそれに近い。 宗教の面でも、中国の影響は大きい。東南アジアの隣国がすべて南伝仏教を信奉するのに対して、ベトナムには中国から伝来した大乗仏教が広まった。ハノイ市内にある仏教寺院は、禅宗系の寺院である。寺のつくりも東アジアのそれであり、パゴーダ中心の南伝仏教系の寺院のつくりとはまるでちがう。

字喃

こうした中国文化の影響下で、ベトナムにはチュノムといわれる漢字系の文字が生まれた。そのあるものは漢字そのものであり、またあるものは漢字と同様の形成原理に従って漢字を組み合わせてつくられた。チュノムは「字喃」と書くが、これは「字、南、口」を漢字の形声原理と同様の発想に従って組み合わせたものであり、「南方の字」を意味する。現在のベトナムでは、漢字や字喃は日常生活からすっかり失われてしまったが、古典や歴史研究のうえでは必須である。ベトナム国立社会科学センターには1979年に喃漢究研院が設置され、字喃資料の保存・維持管理にあたってきた(図4.20)。同研究所には約14000の字喃文書、黎王朝(981-1005年)から阮王朝(1802-1883年)に至る各時期に作成された石碑や銅鐸などの資料類が保管されている。これらの資料を電子処理する必要から、同研究所が中心となって原案を作成し、1993年に字喃文字符号規格TCVN 5713が制定された。これは、約6000字の字喃を収録したものである。

クォックグー(国語)

ラテン文字によって表記される現代のベトナム語を「クォックグー」(国語)という。この表記法の起源は、17世紀に宣教師たちがベトナム語をラテン文字で書くために工夫したものであり、正書法としてまとめたのはアレキサンドル・ド・ロード(Alexandre de Rhodes, 1591-1660)である。松本信弘[1]は、「(クォック・グーの)ローマ字は、フェイホにおける日本人居留民にキリスト教を宣布していた宣教師たちが、ローマ字書きにした日本語のキリシタン本を利用していたことにはじまる。アレキサンドル・ド・ロード神父はこれをさらに改良し、ベトナム語のもつ音調を表すことができるようにした。」と述べている。フェイホは(会安(ホイアン)の方が通りやすい。会舗または会庸と書くらしい)、ベトナム中部のダナンの少し南側、秋盆河の河口近くにある町である。当時、明が海禁政策を解除して、中国人の南海貿易が合法化されたこと(1567年~)、ベトナムが鄭氏・阮氏に分かれて争っており直接の交易がないために、ここにはポルトガルやオランダをはじめ、中国、日本の貿易船(御朱印船)が多数出入りする中継貿易港となっていたことなどから大いに栄え、また、「この町の商人・住人たちには出身国の習俗・法律に従う自治的な生活が認められていた。とりわけ、キリスト教を信ずることを外国人として公認されたのでキリシタン禁止令を逃れた日本人の渡来するものも多く、時には数百人にのぼったとみられている」[2]という事情があったらしい。「日本人橋」といわれる橋は、原型はないもののいまでもあり、そのあたり一帯は「日本橋街」と呼ばれているらしい。

民族独立運動のもとでの漢字排斥

当初はもっぱら宣教師が用いていただけにすぎず、漢文漢籍を教養の基本としていたベトナム知識人が取り入れるところではなかった。今世紀初頭の民族独立運動を主導した潘佩珠(ファンボイチャウ, Phan Boi Chau, 1867-1940)は「ヴェトナム人も従前漢学を尊んで、しかもまた君主専制の治下にあり、その君主はもっぱら科挙の文字をもってその人民を愚にした」と述べ、八股文・詩賦・訓古の学を「科挙の迷毒」とまで攻撃したが[20]、その彼も著書の大半は漢文で著した。彼は数度にわたって来日し、独立運動の同志を育てるために「東遊運動」とよばれる日本留学運動を組織したが、その呼びかけ文書ともいうべき『海外血書』(1906年)なども、原文は漢文で書かれたものであった*15。東遊運動の背景には、日露戦争後アジア全域に広がった日本熱という要因があったことはもちろんであるが、ベトナム人にとって日本を「同文の国」とする親近感があったことも見逃せないのではなかろうか。

フランス殖民地政府も、当初は科挙の学を奨励したが、第1次世界大戦にあたって戦場へ、あるいは後方の兵站へと大量のベトナム人動員を経験した後には、円滑なコミュニケーションの必要を痛感し、大戦終了後は、科挙を廃するとともに、フランス語を含む初等教育を開始した。高等教育の面でも、ハノイにはインドシナ大学が創設され、西洋式の教育が開始された。ハノイ大学のキャンパスには今も創立当時の校舎が残されているが、大教室の一方の扉には伝統的な中国的教養を象徴する「大学」の2文字と毛筆の絵がデザインされ、もう一方の扉にはアスクレピオスの杖に似たデザインが施してある。東西の知的伝統を受け継ぐ、という趣旨だったのであろう。

ホーチミン以降

こうしたなかで独立運動の新しいリーダーとなったホーチミン(1890-1969年)以降の世代のあいだでは、ラテン文字表記されたベトナム語が定着していった。1945年9月に独立を宣言したベトナム民主共和国は、正式にクォックグーを新生ベトナムの国語と定めた。独立後のベトナムは、フランスによる再侵略と対仏戦争、南北への分裂、米国の介入に対する解放戦争など、約四半世紀にわたる苦難の歴史を経て1975年に統一を成し遂げたが、統一後のベトナムにおいてもクォックグーが国語となった。

現在、ベトナムの日常生活から、漢字と中国語はいっさい姿を消した。寺院の中には漢字の扁額が残るが、チャイナタウンの看板と同様、多くのベトナム人にとってそれらは単なる装飾にすぎない。しかし、縦書きや音節文字の伝統はデザイン感覚として残っているらしく、ある寺院ではクォックグーを音節単位で組み合わせ、漢字風にアレンジした柱書きを見た(図4.21)。

2005年1月22日 三上喜貴

[1] 松本信弘:『ベトナム民族小史』,p.118,岩波新書,1969年.
[2] 前掲書,p.112.

23:56:26 - Mikami - mySQL error with query SELECT COUNT(*) FROM nucleus_comment as c WHERE c.citem=74: Table './nucleus/nucleus_comment' is marked as crashed and last (automatic?) repair failed

No comments

2006-02-03

イコール・ランゲージ・オポチュニティー

以下は1999年に書いたエッセイです。

穏やかなミャンマーの友人の怒り

昨年10月(1998年10月)にハノイで開催された会議でのことである。その少し前にロンドンで開催された国際会議から戻ったミャンマーの友人T君は、興奮を抑えきれないようにして次のように報告した。「われわれの要求は受け入れられた。しかし、彼らはいったい『レスペクト』という単語の意味を知っているのだろうか?私たちは怒りを抑えるのが精一杯だった」と。このロンドンでの会議は人権問題の会議ではない。スーチー女史を主題とする会議でもない。ISO(国際標準化機構)とIEC(国際電気標準会議)の合同委員会である情報技術委員会文字コード分科会のことである。

1998年9月ロンドンで開かれたこの会議で、万国文字符号表に追加されるミャンマー文字の文字コードについての審議が行われた。万国文字符号表第一版にはすでに20種類を超える世界の文字が含まれている。ラテン、ギリシャ、キリル、アラビア、ヘブライをはじめ、アジアの文字としては漢字、ハングル、日本の仮名、インド公用語の9種類の文字、タイ文字、ラオ文字等が含まれている。そして昨年から今年にかけてミャンマー、クメール、チベット、モンゴル等の各文字の追加作業が進行した。しかしこれらの文字コードのすべてが該当文字の母国から提案されたものではない。もとよりアジアの多くの国はこの会議に出席すらしていないのだ。ミャンマー文字の提案も、アイルランドの文字デザイナーから提案されたものだ。

この原提案をミャンマーの専門家グループに連絡し、ロンドンで意見を述べるようにすすめたのは、工業技術院標準部の支援で進めている「多言語情報処理技術プロジェクト」の事務局を務めるCICC(国際情報化協力センター)のS氏である。筆者はその仲介役であった。

ミャンマーはT君を含む5人の専門家からなる代表団をロンドンに送り、原提案の理不尽な点を修正すべく対策を提示した。しかしミャンマー語を母語とするコンピューター専門家の用意周到な発言にもかかわらず、原提案者たちは容易に自説を曲げようとしなかったのである。筆者はロンドンには同行しなかったが、あの穏やかなT君が興奮して冒頭の台詞を述べたとき、そこで彼の神経をあそこまで高ぶらせる何かがあったことを理解した。

今年の3月、今度は福岡市内の国際会議場で半年ぶりにこの分科会が開かれ、筆者もT君たちと一緒にこの会議に出席した。今回もミャンマーは5人の代表団を送ってきたが、ことミャンマーに関しては、会議は平穏であった。T君たちは納得できる成果を得てようやく安堵の表情であった。今度怒りを抑えなくてはならない立場に立ったのは、カンボジアから出席した友人のM君であった。

バベルの悲劇

一昨年ブラッセルで開かれたGII(Global Information Infrastructure=地球規模の情報基盤構築構想)に関するG7主催の会議で日本代表の一人であった先述のS氏は、「イコール・ランゲージ・オポチュニティー」と題するスピーチを行った。現代の情報技術の恩恵は、あまねくすべての言語の使用者にゆきわたるべきであると。しかし、このことを実現するのは容易なことではない。

日本の歴史を振り返ってみよう。日本の情報処理の先覚者たちは日本語が使用する文字をどのようにしてコンピューター上で実現するかについて、長年努力を積み重ねてきた。はじめに仮名文字が、やがて漢字がコンピューターによって扱われるようになり、そして1978年にはJIS漢字コードが完成した。同じ年に日本語ワープロが登場し、日本語情報処理の本格的幕開けを迎えたのは偶然ではない。

東アジアではまず中国と韓国が日本に続いた。いずれも80年代に自国語の文字コードについて国内標準を制定した。一方、東南アジアでは多くの国がラテンアルファベットを使用しているため、独自の文字コード制定の必要はなかったが、これは過去数百年間の歴史のなかで伝統的な文字が失われた結果である。東南アジアの島嶼部においても、また半島部においても、古くはインド由来の文字が使用されてきた。タイ、カンボジア、ラオス、ミャンマーではそれが今日まで使われているが、フィリピン、マレーシア、インドネシアでは伝統的な文字はほとんど消滅してしまった。

筆者はデリーの国立博物館を訪ねた折、古代のインド文字がどのようにアジア各地に拡散していったのかを図示したパネルを見た。タガログ語の記述に使われたタガログ文字、ジャワ島住民の言語であるジャワ語のジャワ文字、バリ島のバリ文字、半島部に住んだ歴史上の民族であるモン族やピュー族の文字等はすべてインド由来の文字であるが、これらはほとんど、あるいは完全に消滅してしまった。現在でも使用されているインド系文字のうち、何らかの文字コード標準があるのはインド公用語の9種類の文字とタイ文字、スリランカのシンハラ文字およびバングラデシュのベンガル文字だけである。これらの文字コードは国家標準として定められており、万国文字符号表にも採択された。

しかし多くの国は引き続き文字コードの乱立に悩んでいる。かつての大型コンピューター全盛時代に情報化の洗礼を受けた国では、コンピューター利用者が限られていたために、比較的落ち着いて文字コードの標準化を進めることができた。しかしパソコン時代となった80年代後半以降に情報化時代へと突入した国々では、誰でも簡単に文字をつくれるようになったため多数の文字コードが登場し、混乱が広がった。筆者はヤンゴンの町でミャンマー文字フォントを収集したが、筆者が集めただけでも10種類を超え、これらのコード間に互換性はない。インドシナ半島の多くの地域も似た状況だ。

文字コードの標準化の遅れは何を意味するか?図1を見ていただきたい。アジア諸国におけるインターネットに接続されたホストコンピューターの数を示すグラフである。縦軸は対数目盛であるから、右上がりの直線に見える成長カーブは指数関数的増加を意味する。若干の紆余曲折はあるにせよ、アジア各国でインターネットが急速に普及していくことは疑いがない。しかし同じ言語の話者間でも、彼らが異なる文字コードを用いている限り、彼らの間で自国語によるコミュニケーションは成立しない。他人のつくったホームページを見ることもできない。標準化の遅れ、文字コードの混乱は、バベルの塔の悲劇を生む。

活字・識字

15世紀にグーテンベルクが発明した活字印刷技術は、人類のコミュニケーション、知識の伝達と記録に大きな役割を果たしてきた。ではその恩恵はいったいどこまで及んだのか。日本で活字印刷が始まったのは明治維新前後である。過日関西方面に所用の折、久々に夜行列車「白鳥」で大阪へ向かった。早朝の大阪で時間を持て余して四天王寺の境内を散歩していたら、偶然、本木昌造翁の記念像に出くわした。翁は日本における活字印刷の開拓者である。翁の活躍と同じころ、あるいはそれよりも早く、アジア各地に赴任していた宣教師たちはラテン文字の金属活字を持ち込み、任地の言語をローマ字化して印刷した。しかし任地の文字を金属活字として鋳造する試みはそれほど多く行われたわけではなかった。当たり前のように普及した印刷機械も、アジアの多くの地域では今なおありふれた存在とはいえない。

図2を見ていただきたい。ユネスコ(国連教育科学文化機関)統計によるアジア各国の紙消費量を示したものである。ユネスコが集計しているのは包装・梱包やトイレ・化粧用といった用途を除く、印刷用紙および筆記用紙に限っての数字である。消費量が最低である北朝鮮やラオスの紙消費量は国民一人当たり55~60g。A4コピー用紙一枚の重さは約4~5gであるから、北朝鮮やラオスの国民一人当たり筆記・印刷用紙消費量はA4コピー用紙換算で年間12枚程度である。同様の計算をすると、カンボジア15枚、モンゴル30枚、ミャンマー80枚、ベトナム250枚、インド400枚となる。ちなみに日本全体の平均値は113㎏であるから、A4換算では2万枚を超える。

こうした3桁に及ぶ印刷文化の格差の原因には政治的なものや全般的貧困もあろうが、基本的には活字印刷が開花・定着しなかったことにある。それはまた識字率の低さの遠因ともなった。少数民族まで視野に入れれば、活字印刷の時代をまったく迎えなかった文字文化圏すらある。今年の3月、ネパールを訪ねた。そのときカトマンズでソフトハウスを経営するA氏から、ネパールの主要民族の一つであるネワール族の使用するネワール文字はついに金属活字がつくられず、印刷はすべてヒンディー語のデーヴァナーガリ文字への換字によって行われていることを教えられた。

こうしたなかで、パソコンの普及は、グーテンベルク以降の500年間実現しなかった活字文化を開花させる可能性をもっている。東南アジアの町でちょっとしたチラシや新聞の編集に用いられているのが、パソコンを用いたデスクトップ・パブリッシングである。筆者がミャンマーで調査したところでは、パソコンユーザーの3割が出版用途であった。各国語処理を行うパソコンとプリンターは、最も手軽に利用できる印刷機なのである。

97年5月、工業技術院とUNIDO(国連工業開発機関)の共催によりシンガポールで開催された多言語情報処理国際会議では、インドネシア大学の研究者から古代のジャワ文字を記録するソフトのデモが行われ、フィリピン大学の研究者からはタガログ文字入出力のデモが行われた。多民族社会の緊張関係が軍政の背景となっているミャンマーでも、町のパソコンショップでカレン族やシャン族の文字フォントが売られているのを見た。現代の情報技術による活字文化活性化の福音は、すべての文字、死語となった文字にさえ開かれているのだ。

情報化の波は英語の地位を著しく高めている。それは事実だが、「イコール・ランゲージ・オポチュニティー」の実現を悲観視する必要はない。世界の文字について、そのコンピューター上での表現である文字コードの着実な標準化が行われるならば、情報技術の恩恵をすべての文字に、すべての人々に行き渡らせることが可能である。
初出:通産ジャーナル, 32/8, pp.34-37(1999)
03:21:28 - Mikami - mySQL error with query SELECT COUNT(*) FROM nucleus_comment as c WHERE c.citem=564: Table './nucleus/nucleus_comment' is marked as crashed and last (automatic?) repair failed

No comments