mikami

2006-02-03

歴史の中の植物園


植物園の楽しみ方にも色々あると思う。その広々とした空間に配置された花や木々の美しさを楽しむ人、のんびりとした長閑さにひたすら心休める人、ピクニックに出かけて子供が走り回る姿を楽しむ人。しかし、ここでは少し変わった視点から植物園を眺めて見たい。それは植物園を歴史の舞台として眺めて見ようということだ。

1 大英帝国の建設した植物ネットワーク

シンガポールの発展は1819年に英国東インド会社の総督ラッフルズ卿が貿易拠点を設けたことに始まる。これを契機として当時マレー半島先端に位置する人口千人ばかりの一漁村に過ぎなかったシンガポールはその後中継貿易港としての発展を遂げることになるわけだが、ラッフルズ卿はそのわずか3年後に当時政庁舎のあったカニング・ヒルの地に植物園も建設した。当初の植物園はその後一旦閉鎖されたが、1959年に現在の地タングリンに再建され、また1875年以降はロンドンのキュー植物園で訓練を受けた園芸師や植物学者が続々とやって来て本格的な発展を遂げた。当時イギリスはアジアのみならず、地球上に隈無く拡がった植民地に数多くの植物園を建設した。他の植民地国家もまた幾つかの植物園を発展させたが、その規模は大英帝国のそれに比ぶべくもなかった。以下はその主要な植物園の一部を、筆者が調べた範囲で設立年の分かったもののみを設立年の順に並べたものである。

ロンドンにキュー植物園ができた頃、都市化が進む社会変化の中にあって、都市におけるリクリエーションの場を確保すると言うのが植物園に期待された役割の一つではあったろう。加えて「旅行家と採集家と分類家の偉大な世紀だった」(注1)とも言われる18世紀にあっては、植物園はまた博物学者や採集家達のコレクションの生きた保管場所でもあった。しかし海外の植民地に建設された植物園の主たる役割は、植民地経済を支えた様々な経済作物の苗を育て、そしてこれを実験する場所であった。セイロンのお茶、ジャワ島のコーヒーやキニーネ、キューバのサトウキビといった植民地を支える作物はいずれも世界に広がるこうした植物園ネットワークの存在なしには育たなかった。植物園ネットワークを活用した経済作物資源の管理は、これらの経済作物を主たる国際貿易商品とする当時の世界経済の中で極めて戦略的な重要性をもっていた。そこで以下においてはゴム、茶、オイル・パーム、チョウジ(丁子)、サトウキビを例にとってその種子や苗木の拡散の跡を駆け足でたどり、これを支えた植物園の役割について見ていくこととする。

2 ゴムノキの場合

(ブラジルからのゴムノキ導入)
天然ゴムはゴムノキの樹液から作られる。コムノキの中でも最もゴム生産に適しているのがパラゴムノキと呼ばれる品種である。パラゴムノキの学名はヘベア・ブラジリエンシス(Hevea Brasiliensi)であり、その原産地ブラジルに因んで命名されたものである。もともと西洋社会でゴムへの関心が生まれたのは18世紀のことらしい。既に1770年にイギリスの化学者ジョーセフ・プリーストリーは、ゴムの塊でこすると紙の上に書いた鉛筆の文字が消えることを報告している(そしてこれが英単語rubberの語源となった)。19世紀に入ってゴム製品にはレインコート、ゴム引き長靴など種々のものが現れたが、特に1839年にアメリカ人チャールズ・グッドイヤーの手によって加硫法が発見されてからはゴムの用途は著しく拡大した。更に決定的となったのが英国人ダンロップによる中空タイヤの発明であり(1888年に特許取得)、これによってゴム産業は自動車産業に不可欠の要素となった。19世紀の後半はゴムのブームとなり、天然ゴムの積み出し港であったブラジルのマナウスは一獲千金を夢見てゴムに群がる人々で人口が急増したという。

こうした状況以下、イギリスは帝国内でのゴム自給を目指し、1876年アマゾンから7万粒といわれる大量のゴムノキの種子を密かに持ち出すのに成功し、これをロンドンのキュー植物園に運んだ。キュー植物園では急遽ラン温室を開放してゴムノキ発芽用の苗床を作り、数週間後めでたく7千本の発芽に成功した。更にキュー植物園園長のフーカーとインド政庁および植民地省はセイロンを苗木の繁殖、実験、配布のセンターとして選定し、キューで発芽したうちの2千本の苗木をウォードの箱(植物の苗木を運搬するための箱。発明者の名に因んでこう呼ばれる)に植え付けてセイロンに運んだという。(注2)この時苗木が運ばれたのは、コロンボから30kmの地点カンパラにあるヘネラスゴーダ植物園(Henerathgoda Botanical Garden)である。

(ゴム栽培のセンター、ヘネラスゴーダ植物園のこと)
このヘネラスゴーダ植物園は、キューから運ばれた貴重な2千本の苗木を育てるために1876年に開設されたものである。この時少数の苗木はキューから直接シンガポール、インド、ビルマやジャワのボイテンゾルフにも運ばれた様だが、大部分はここからシンガポールはじめアジアの各地に移植されたのであるから、セイロン島はアジアのゴム産業にとっての発祥の地という訳だ。筆者は1995年5月にここを訪れたことがある。アジアのゴム園を生み出したこの親木は今でも当植物園に健在であるというが、残念ながら見落としてしまった。今でも悔やまれることの一つである。なおこうした経緯もあり第1回の世界ゴム展はスリランカで開催されている(但し後述するペラデニア植物園で)。

(セイロンからシンガポールへ)
そして早くも1877年6月には、このゴムノキの苗木22本がシンガポール植物園へと運び込まれた。(注3)これらの苗木は、試験的な栽培のために、マレー半島を中心に配られたが、その推進者となったのが「マレーゴム産業の父」といわれるリドレー博士である。筆者はリドレー・パーク(Ridley Park)と呼ばれるところに住んでいるが、ここはかつて植物園長をつとめたヘンリー・ニコラス・リドレー(Henry Nicholas Ridley)の住居であった場所であったと想像している。彼はロンドンの自然史博物館の植物掛りであったが、抜擢されて1888年に初代園長となり、以降1912年までの23年間にわたってその職にあたった。この時代はシンガポール植物園がマレー半島のゴム産業形成の基礎として大きく発展した時でもある。セントーサ島の博物館「パイオニアーズ・オブ・シンガポール」へ行くと、リドレー園長が婦人とともにゴムノキの横に立っているシーンがあるが、このゴムノキに入っているヘリン・ボーン型(杉綾織模様)の傷は彼が編み出した樹液採取方法である。彼はマレー半島各地を回り熱心にゴムの栽培を説いた。

(ゴム事業で成功した華人達)
リドレー園長の呼びかけに真っ先に応えたのがマラッカのタピオカ生産者であったタン・チェイ・ヤン(Tan Chay Yan)である。1896年、彼は16ヘクタールの土地をパラゴムの栽培のために提供し、1901年には更に1,200ヘクタールの土地を追加してパラゴムの栽培を拡大した。彼の事業は大成功し、彼に続いて多くの事業家がゴム農園の経営に参入した。その多くはマレー半島に移住してきた華人達であり、その中からは多くの成功者も現れた。

南洋華人の立志伝中の人物である陳嘉庚(Tan Kah Kee,1874~1961)もその一人である。彼は子供の頃に厦門から渡ってきて、いくつかの事業を経た後ゴム農園の経営に乗り出し、今世紀の初頭、折りからの自動車産業の勃興を追風として大成功を収めた。彼は当時「東洋のフォード」とも呼ばれる程の巨額の財産を成したが、これを教育事業に投じ、華人社会から多くの尊敬を集めた。彼は1921年に生まれ故郷の中国福建省厦門に私財を投じて「厦門大学」を設立し、また戦後の1956年にはシンガポールで中国語による初の高等教育機関である「南洋大学」設立にリーダーシップを発揮した。

(マレー半島が世界最大のゴム生産地に)
こうした事業家達の努力により、1897年にわずか120ヘクタールに過ぎなかったマレー半島におけるゴムの栽培面積は、1940年には130ヘクタールに達したという。記録によれば1917年までにシンガポール植物園の提供したパラゴムノキの種子の総数は700万に達するという。マレー半島は1920年までには世界のゴム生産の半分以上を生産する地域となった。この過程でシンガポール植物園自身も収集を拡大し、またシンガポールは国際的なゴム貿易の中心地となった。

(日本軍による占領…「昭南島」時代)
第二次世界大戦開始にともない、シンガポールは日本軍に占領されて『昭南島』と改名され、植物園もまた『昭南島植物園』と改名された。この占領下で引き続き副園長をつとめたコーナー博士は当時の植物園の様子、役割を次のように書き記している。「広さ32ヘクタール、百年近くの歴史を持つ園内は、熱帯から亜熱帯にかけての3千種類もの樹木で埋まっており、文字どおりマラヤの自然の宝庫であった。(中略)植物園内には研究所、腊葉館があり、島内のブキティマには保護森林地帯(現在も自然保護区となっている、引用者注)を所有し、海岸のマングローブ地帯の保護地区(今のチャイニーズ・ガーデン)は生きた植物研究所となっていた。標本室には数世代にまたがる植物学者たちが採集した標本が、採集時の現場状況を記したノートとともに所せましと陳列されていた。植物のスケッチ、遠くニューギニアにいたるまでの探検の記録、論文、未公開の論文原稿、その他植物に関するありとあらゆる知識と情報が集められ、保存されていた。植物園はたんなる散歩道や遊園地などではなく、シンガポールの産業の主要な拠点となっていた。ボイテンゾルフ熱帯植物園(戦時中、日本軍は現地名をボゴールと改めた)と並んで、世界一の植物園として、植物関係者でこの名を知らない者はいないと言ってもよかった」(『思い出の昭南博物館』32~33頁)。今日これらの植物標本コレクションは引き続き植物園内に保管されている。またマレー半島全体へ配られたゴムノキの親木は今も植物園の中に生きている。

3 セイロン・ティーの場合

ゴムの話に区切りがついたところで、セイロン島の他の植物園についても一言紹介しておく。それはまたセイロン・ティーの濫觴にまつわる物語りである。
スリランカの島の中央部の高地に古都キャンディーがある。釈迦の歯をまつる仏歯寺があることでも有名だ。シンハリ族の最後の王朝はこのキャンディーを王都とし、16世紀から18世紀にかけてのポルトガルとその後のオランダによる執拗な攻撃にも最後まで抵抗し続けた。最後にイギリスがこの島にやってきてオランダを追い出し(1796年)、1815年にはついにキャンディーも占領した。そしてイギリスは1832年に土地の所有に関する法律を大改正し、イギリス人が容易に土地を所有できるようにした。この結果シンハリ族の農民たちは土地を失い、地方でイギリスが農園労働力として移住させたタミール人口が増大した。

このキャンディーの近郊にペラデニア(Peradeniya)植物園がある。キャンディーは標高500m弱の高地にあり、平均気温は年間を通じて27度前後、一年の半分が雨季であり、年間降雨量は2,200ミリである。この植物園の土地は、元来キャンディー王朝の王家邸宅であった。この植物園の歴史をたどると、オランダがまず初めにコロンボ市内の中州にあるスレーブ島に植物園をつくった。イギリスがオランダを追い出した後しばらくの間この植物園は放置されていた。1810年になって当時の英国王立協会会長ジョセフ・バンクスがここに植物園を建設するよう求め、ウィリアム・カーを園長として植物園が再開された。しかしこのスレーブ島の植物園は間もなく放棄され、コロンボの南の海岸沿いにあるウガルボーダに経済作物についての大規模なプランテーション実験農場が開拓された。しかしこのウガルボーダも長く続かず、更に1820年代から1845年までの間にここの植物はペラデニアに移された。その後、1849年から1880年にかけて園長を勤めたG.M.K.Thwaites博士のもとで植物園は特に発展し、アラビアから持ち込まれたコーヒー、南米からきたキナノキ(キニーネの原料)、カンフォル、丁子、カカオ、バニラなど様々な経済作物がここで栽培された。しかし画期となったのは1867年はジェームズ・テイラーがこの植物園から譲り受けた茶の木をキャンディの東南にあるルールコンデラに植えたことである。これが茶の名産地としてのセイロンの濫觴である。

(日本の協力で生まれ変わるガルノワ農場)
なお、セイロン島にはもう二ヶ所、イギリスが栽培実験場をつくった。ひとつは1820年代に、イギリスからの投資を呼び込むために開拓されたガルノワ地区のコーヒー栽培用実験農場がそれである。今日この農場跡地には日本からの経済援助で栽培植物の遺伝子資源の保存を目的とした「プラント・ジェネティック・リソース・センター」が建設されている。筆者は95年の5月にスリランカを訪れた時、シンガポールからの機中で偶々一人のスリランカ人と隣合せとなったが、彼はこのプロジェクトの関係者であり日本で研修を受けた帰路にあったのであった。

4 パームオイルの場合

(オイルパームは西アフリカから)
もうひとつのプランテーション作物として植物油原料のパームを取り上げておこう。ヤシは今日熱帯地方のどこでも見かけるありふれた樹木のひとつだが、多くの種類があり、そのうちマレー半島の主力輸出品である油脂原料としてのオイルパームはもともと西アフリカの原産である。学名はElaeis guineensisという。一本の木に1,500以上の実をつけ、実からは透明でオレンジ色の良質な油脂がとれる。世界各地で栽培されている油脂植物には、油ヤシのほかにココヤシ、オリーブ、菜種、胡麻、落花生、大豆、綿、ヒマワリなどがあるが、単位面積あたりの収量は油ヤシが最も多いという。(熱帯植物散策、136頁)このヤシ油は前世紀まではロウソクや石鹸、潤滑油の原料として利用されるにすぎなかったが、1899年に水素添加法(サバチエ・サンドラン法)が発明されてマーガリン製造へと用途が広がり、世界各地でのプランテーションが加速された。

このオイルパームがアジアに初めて持ち込まれたのは19世紀の半ばという。リドレーの次の植物園長バーキルによれば、カルカッタ植物園には1836年、モーリシャスのパンプルムース植物園にはその少し前、ジャワのボイテンゾルフ植物園には1848年に持ち込まれた。ボイテンゾルフへは、オランダ本国とブルボン島(モーリシャス島の南西にある島、やはりフランスの作った植物園があった)から苗木が運ばれた。

(ボゴール植物園のこと)
ここでついでにお隣ジャワ島のボゴール植物園(昔はボイテンゾルフ植物園と言った)のことにも触れておこう。ボゴールはジャカルタの南約60kmにある高原の町である。1994年にAPECの首脳会議が開催されたことは記憶に新しい。サラク山の中腹に位置し、標高が260mあるためジャカルタよりも過ごし易い。オランダのバタビア総督イムホッフ(Van Imhoff)は1745年にこの地に別荘を建てた。この町の旧称は「ボイテンゾルフ」(Buitenzorg)と言うが、これはオランダ語でfree of worryを意味するらしい。「虎狩りの殿様」で有名な徳川義親博士の旅行記『じゃがたら紀行』(中央文庫版243頁)を読んでいたら「ボイテンゾルフとは阿蘭蛇語で莫愁郷ということです」との解説があった。昔の人の日本語訳は流石に気が利いている。ちなみにボゴールという地名は第二次大戦時に日本軍がオランダ名を嫌い、旧名に復したものである。イギリスによる短いジャワ占領の間(1811~1815)に、ラッフルズ卿がロンドンのキュー植物園の支援のもとでこの地に小さな植物園を設立したというが、本格的な植物園建設をおこなったのはオランダである。当時のこの植物園についての解説は、再び徳川博士の旅行記にお願いする。

「この町は昔ボゴールというた、全くの片田舎の町であったのですが、1745年、時の(オランダ東インド会社)総督ファン・インフォーフがバタヴィアが湿潤・瘴癘(しょうれい)の地であるので、ここに東印度総督の官邸を造営し、名をボイテンゾルフ即ち莫愁郷と改めました。この地のさらに世界的に有名になったのは1817年、ラインワルト博士の設計により出来上がった20万坪に余る大植物園のあるためで、1810年以来、メルヒオル・トロイブ博士が園長に就任してから、その力で今は世界第一の熱帯植物研究場となり、完備した研究室をもっています。世界の植物学者がちょうど聖地巡礼にでも出かけるように、敬虔な心持で一度は踏まんことを憧れているこの土地に、ともかくも植物学の一部に携わる私が、今来ることの出来たのは本当に喜ばしいことです。」(中公文庫「じゃがたら紀行」55~56頁)

当時の園内には、有用植物標本室、研究室、ゴム研究所など様々な研究施設があったようだ。当時ジャワ島の学術協会であった東印度王立協会の会長ドゥ・フリース博士は、この植物園内にあるゴム研究所の所長であったというからオランダもまたジャワ島でのゴム栽培に執念を燃やしていたのであろう。今日の園内には動物園もあり、インドネシア政府の森林自然保護局がおかれている。また植物園の東側に隣接してインドネシアにおける農業研究の中心である国立農業研究所やボゴール農科大学がある。

(マレー半島への拡散)
そしてジャワ島では1857年に最初のプランテーション栽培実験が行われ、その後島全域に拡がった。シンガポールの植物園にはおそらくジャワからの苗木が持ち込まれ、ここを苗木の供給地として大規模なプランテーションが1910年代にまずスマトラで、その後ジョホールで、域いはクアラルンプールでという具合に拡がり、大ブームとなった。マレー半島の気候、土壌条件はパームオイルに適していることが明らかとなり、結果的にはアフリカ産を凌いでパームヤシの世界的な供給源となっていくのである。なおオイルパームの母樹として東南アジアでの栽培に種を提供した歴史的な樹が、かつてボゴール植物園に保存されていたが、寿命が尽きて枯れてしまったという。

5 チョウジ(丁子)の場合

(古代文明の時代からの貴重品)
チョウジは最も古くから知られていた香料の一つであり、またその独占のためにすさまじい悲劇が演じられた作物でもある。中国では紀元前3世紀の医書に記載があり、インドのアーユルヴェーダにも記載がある。今日の科学的検討によってもその成分には健胃作用や抗菌作用があることが知られている。学名はEugenia Aromaticaである。学名の前半は南仏にあったサヴォア公国ユージェーヌ公の名前に由来するらしい。インドネシアでは2万ルビア紙幣の裏面デザインに用いられている。インドネシア語でCongkeh、マレー語でChengkehと綴るが、これらはいずれも中国名(丁香)から変形して作られたというのが通説らしい。それだけ中国が御得意様だったということだろうと想像する。中世ヨーロッパの様々な都市の関税率表に登場するらしいからやはりヨーロッパでも高価な品だったのであろう。この時代に丁子を取り扱っていたのはアラビア商人達であり、原産地についてはヨーロッパでは全く知られていなかった。マルコポーロの記述などもこの点については滅茶苦茶だったようだ。この原産地がモルッカ諸島であることを初めて確認したのはポルトガル人である。「マジェランと旅をともにしたアントニオ・ビガフェッタは1521年モルッカ諸島でチョウジの木を目撃した」(「香辛料の世界」)。そしてこの発見のあとポルトガル人およびそれに続いてオランダ人が2世紀以上にわたってチョウジ貿易を独占するが、この独占維持の方策は次のようなものであったらしい。以下はフランスの探検家ブーゲンヴィルが『世界一周旅行記』の中で記した記録である。

(あの手、この手で独占維持)
「オランダ人は、と言うよりもむしろオランダ東インド会社は、香辛料の取り引きを独占的に行うのが得策と考えて、ヨーロッパ人を香料諸島から遠ざけ、また沿岸を厳重に警備させた。これは島民が、中国、フィリピン、マカッサル(ウジュン・パンダン)等々と密貿易するのを防ぐためでもあった。東インド会社はこれらの貴重な商品を生み出す植物が採用され、他の土地にうまく移植されることを恐れていた。会社は、点在しているが為に貴重な警戒を十分に行いえない島々ではこうした植物を根絶やしにし、逆に容易に貴重な作物の栽培を管理できる小さな島々に限って栽培させたのである。東インド会社はこれらの島々の君主達には補償を余儀なくされた。テルナート王の場合、年間2万リクスドラーをたった一人で手にした。東インド会社は幾人かの王に対しては香料作物を焼いて根絶やしにすることが出来なかったため、そういった場合には、会社は戦争という手段を選び焼いてしまったのである。また会社の方が相手の領主よりも弱いときには、青い葉を摘めば三年後にはその植物が死滅してしまうことを十分熟知していたので、毎年青葉を買い取ることにしたのである。こういう事実関係については、現地民は全く無知であったに違いない。」
筆者はこの島を訪れたことが無いが、島には監視のために作られた、島の大きさとはおよそ不釣り合いな要塞が今でも残っているという。

(モルッカからの拡散)
しかしこうして必死に守られてきたチョウジであるが、やがてはモルッカの外へと拡散した。まずフランスのモーリシャスおよびブルボン植民地の総督であったボアーヴルが苗木の入手を目論み、1789年頃に南アメリカのカイエンヌ(現在の仏領ギアナ)植民地に持ち込むことに成功し、更に西インド諸島にも持ち込んだ。オランダの必死の努力にもかかわらず、種が鳥の冀に混じって隣の島に運ばれることはあるようだ。フランスが獲得した種(苗木?)もこうして拡散したものかもしれない。

(パンプルムース植物園のこと)
ここでもう一度寄り道して、これまでにもしばしば登場したモーリシャス島のパンプルムース植物園のことについて触れておこう。まずモーリシャス島について一言述べておこう。マダガスカル島の東800kmのインド洋上に浮かぶ南北、東西ともに50km程度の島である。1990年の人口は109万人であり、人口密度は極めて高い。しかしながらバスコ・ダ・ガマが喜望峰回りの初航海(1498年)の途上でヨーロッパ人として初めてこの島を発見したとき、そこは無人島であったという。その後何度かポルトガル人がやって来たが彼らは入植しなかった。約一世紀後に独立したばかりのオランダ(1581年に独立)がやがて来てこの島をモーリシャスと名付けた。オランダの第二代大統領モーリス(在位1587~1625)にちなんで名付けられたものという。オランダは1602年に東インド会社を設立した後、アンボイナ占領(1605年)、平戸への商館設置(1609年)、ポルトガル領モルッカ占領(1615年)、更に1619年にはジャワ島にバタヴィアを建設するといった具合の急テンポでアジアへの進出を開始するのであるが、これらの東インド経営に際しての航路上の補給基地として、モーリシャスへの定住が始まった。1642年にタスマニアやニュージーランドを発見したアベル・タスマンの探検艦隊もこの島から出発したという。スエズ開通まではアジアへの航路への要所に位置していたわけだ。

次の世紀にはフランスがやって来て、この島をイル・ド・フランスと名付けた。サトウキビの栽培が本格化し、砂糖工場や病院も作られた。最近に至るまでこの島の経済を支えたのはこのサトウキビのプランテーションである。パンプルムースに最初の植物園が作られたのもこの時代である。1735年に当時の植民地支配人の個人的な菜園としてスタートし、後1768年に園芸家ピエール・ポアーブルがやって来て香料作物を世界中から集めた。ちなみに「パンプルムース」と言う地名は、グレープフルーツの意味であり、オランダがジャワから持ち込んだかんきつ類に因んで名付けられたものという。その後19世紀の前半は植物園は放置されていたが、1814年のパリ条約によってフランスはこの島を西インド洋の他の二島(ロドリゲス島及びセイシェル島)と併せてイギリスに譲渡することとなった。1968年の独立後は、独立の英雄であり、初代の首相でもある人物に因んでSir Seewoosagaur Ramgooram Botanical Gardenと大変長い名前で呼ばれている。

(ザンジバル、そしてペナンへ)
そしてこのようにしてモーリシャスでの栽培が始まったことからアフリカ東海岸のアラブ人達が栽培に加わるようになり、ザンジバル(タンザニアの首都ダルエスサラームの沖合いの島)などがその後主要産地として発展するきっかけとなった。今日では世界生産の8分の7はザンジバル産だそうだ。またイギリスは最終的にモルッカを得て、植物学者をアンボイナに送り大量に苗木を入手し、そしてこれらはペナンに運ばれた。

(ペナン植物園のこと)
身近なペナンに戻ったところでペナンの植物園、ウォーター・フォール・ガーデンのことも紹介しておく。ペナン植物園はイギリスによって1884年に開設された。もともとは石灰石の採石場であり、植物園開設当初の主たる実験作物は胡椒とチョウジであったという。チョウジはモルッカから運ばれてきたものである。今日ペナンの植物園に行くと、別名「ウォーター・フォール・ガーデン」と呼ばれる如く、山裾の地形を生かした美しい植物園が楽しめる。

6 サトウキビの場合

ゴムのケースと違って、サトウキビの場合にはかなり古くから栽培種の拡散が進んでいたようだ。インドでは紀元前から薬としての砂糖の利用が知られており、アユールベーダにはサトウキビを用いた処方が記録されているという。そしてインド文明の東南アジアへの伝播にともなって、このサトウキビの栽培も東南アジアへ、そしてミクロネシア、ポリネシアへ拡がったと考えられている。18世紀末からサトウキビの本格的なプランテーションが始まろうとした時、各国とも様々な品種を集めて栽培実験を試みたが、このとき主たる供給源となったのは南太平洋のタヒチ島、ジャワ島やインドであった。例えばフランス人の探検家ブーゲンビルは1766年から1767年にかけての航海の際にタヒチ島に育つサトウキビの優良種を発見し、これをまずブルボン島に持ち帰り、更にその一部をブルボン島から西インド諸島へと移植した。一方1791年にプロビデンス号に乗ってタヒチに行った探検家ブリッグ(Bligh)もそこで採取したサトウキビをジャマイカに運んだ。これらの新しい種は今日Otaheiti種ないしブルボン種(Bourbon)として知られるが、西インド諸島に昔からあった雑種にさっそく取って代わったという。

また1782年にジャワ島からモーリシャス島に運ばれた幾つかの品種もある。その内のあるものは後にキューバに移植されて、キューバでの標準品種となった(クリスタリーナ或いはホワイト・チェリボンと呼ばれる亜種)。このように、サトウキビの場合にもプランテーションの初期における栽培品種の探索、選別の過程で植物園ネットワークの果たした役割は大きい。

7 ガーデン・シティー建設とシンガポール植物園

(シンガポールの農地面積はチャンギ空港の5分の1)
最後にシンガポール植物園にもう一度戻って、独立後のシンガポールにおいて植物園が果たしてきた役割について考える。今日のシンガポールには食料生産や輸出作物生産を行う農業は極く小規模に存在するだけである。国土面積(646)の0.5%に相当する350ヘクタールの農地(これはチャンギ空港の占める面積のわずか5分の1程度)が、合計85軒の鑑賞植物生産農業家(主として蘭の生産農業家)と45軒の食用野菜生産農家に割り当てられているに過ぎない(1994年の統計)。こうした観点からすれば、かつて植民地時代に果たしてきた「経済作物の苗木供給」という役割は蘭を除いて完全に終わったといえる。インドネシアなどにおいて植民地時代に開設された植物園が引き続き農業研究の拠点としての役割を担っているのとは対照的と言えよう。

(庭園国家建設の為の緑の供給源)
独立後のシンガポールにおいて植物園の果たして来た役割は、むしろ緑に溢れる美しい庭園国家建設の支援に置かれて来た。今日のアジアの都市の中でもシンガポールはとりわけ美しい都市と評価されているが、それは先見性ある都市計画とその着実な実行によってもたらされたものであり、この過程において植物園の果たしてきた役割は極めて大きい。1995年10月、シンガポール植物園に新たに開設された「国立蘭園」(National Orchid Garden)の開園式に臨んで、リー・クアンユー前首相は「シンガポールの緑に溢れる自然は偶然に出来上がったものではない。それは30年間にわたるたゆまない努力の成果なのだ。」(Straits Times95年10月21日)と述べたが、その努力の中心にあったのが本植物園である。

シンガポールでは毎年11月に「植樹の日」(Tree Planting Day)の記念行事が行われてきた。(但し、今は行われていない)リー・クアンユー前首相は独立前の1963年に早くも「植樹運動」を提唱し、独立2年後の1967年には「ガーデン・シィティー」構想を発表した。そして1971年には同首相が先頭に立って第1回の「植樹の日」が実施され、今日まで続く運動の端緒となった。更に1973年には「ガーデン・シティー」構想推進の組織的な基盤として、国内に公共事業を担当する公共事業局(PWD:Public Works Department)の樹木公園部(Tree and Parks Section)とシンガポール植物園のふたつの組織が統合され、公園レクリエーション局(PRD:Parks and Recreation Department)となり、その後、1996年6月にはNational Park Boardとなった。シンガポールの街は世界でも最も緑の多い町の一つに数えることができるが、町の至る所に見られる植物園はそのほとんどが元来の自生品種ではない。例えば32年前の独立時に植えられ、今では通りを覆いつくすばかりの巨木に成長したオーチャード・ロードの並木はアンサナ(Agsana)と呼ばれる木だが、これも輸入種である。このように、シンガポールの都市を彩る木や花の多くは、本植物園が中心となって海外から入手し、町の中へと供給したものなのである。先に引用した演説の中で前首相は「他の国の植物園を訪問してがっかりすることがある。植民地時代に建設された植物園がその後何ら手を加えられず、すっかり荒廃したものになっているからだ。私はシンガポールの植物園が独立後もこうして我々の手によって維持され、発展されて受け継がれていることを誇りに思う」と語っているが、本植物園はシンガポール独立後においても新しい使命をもって更に発展を続けてきたといえる。
初出: 三上喜貴,「南十字星」(シンガポール日本人会会報),1997年2月号,pp.39-49.
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2006-01-29

アジア生まれのノーベル賞受賞者

毎日新聞で「理系白書’06」という連載が始まりました.三上も取材に協力しています.連載第一回「第1部・迫るアジア ノーベル賞」(2006年1月25日付)に三上のコメントも掲載されました. 詳しくは MSN-Mainichi Interactive

アジアのノーベル賞に関して,三上は次のようなエッセイを書いています.
  1. ノーベル賞と日本企業の技術力,電機総研レポート No.284,2003年4月号
  2. The Industrial Instruments of Scientific Success, Look Japan Vol.49 No.565, April 2003, pp.24-25.
  3. 技術大国インドの研究:歴史編,長岡技術科学大学研究報告 22. pp.53-76,2000年12月
  4. アジアにおけるノーベル賞「マグサイサイ賞」,通産ジャーナル Vol.29 No.12,pp.68-71,1996年12月
  5. アジアのノーベル賞受賞者リンク集
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